【京都ネタ】地蔵盆って知ってますか?〜担当になって考えたこと。

どうも、想いだけでも自伐型林業家のスズキです。

スーパー蒸し暑い京都も、五山の送り火をへて、朝晩はわりと涼しくなりました。

毎年恒例、お盆の帰省ラッシュとリターンも一息といったところでしょうか。

ぼくの住んでいる地区ではお盆の時期に「地蔵盆」という催しがあります。

京都特有のイベントでWikipediaによると次の説明が。

地蔵盆(じぞうぼん)は、地蔵菩薩縁日で、厳密には毎月24日であるが、一般的には、その中で特にお盆にも近い旧暦7月24日のものをいう。ただし、
寺院に祀られている地蔵ではなく、道祖神信仰と結びついた「路傍や街角のお地蔵さん」いわゆる「辻地蔵」が対象となっている。

ユネスコ無形文化遺産や、日本民俗文化財などに該当する。

新撰組で有名な壬生寺は、ご本尊がお地蔵さんなのです。それゆえこうした行事とも関連がつよく、町内にお地蔵さんがない地区に対しては、いわば「地蔵レンタル」事業をされているのは意外と知られていないのではないでしょうか?お地蔵さんがない新興住宅地から貸し出しを依頼されたのがきっかけで、50年以上続いています。

参考:壬生寺の歴史


脱線しますが、ちなみに美術作家の小沢剛さんの初期シリーズとして名高い「地蔵建立/ZIZOing」

もお地蔵さんネタとして挙げておきます。

現代美術のいいまわしがすこし回りくどいかもしれませんがご本人のウェブサイトの作品概要を転載しておきます。作品画像はサイトでご覧下さい。

旅先の世界各地で、その風景を小さな手製の地蔵とともに写真に収めていくシリーズが《地蔵建立》である。初期には粘土を使った手作りの地蔵が据えられたが、やがて地蔵が描かれた紙片が風景に重ね合わされ、さらには地面、建物にも直接描きつけられるようになった。地蔵の造形そのものは簡略化の過程を経て、アイコンと化し、それぞれの地域や風景にとけ込みながら、作家の移動の軌跡を記しつづける。地蔵を通じ小沢の視線は、時には歴史的な出来事の舞台を横断し、あるいは、ざわめく都市から辺境の地に至る人々の日常に紛れ込む。いかなる場所いかなる状況にあっても、作品は一様に、日暮れ間際の空をイメージした深い青みを帯びた色調の風景として再現されている。移動をつづける作家の視点を代替するかのように、地蔵は様々な土地での人々の営みを見つめ続ける存在として、密やかにではあるが超然と佇んでいる。

で、本筋にもどります。

メインイベントは無事にきょう終えることができました。

町内会のメンバーの高齢者率が高いのですが、お互いに協力しあって得手不得手をカバーできていたと思います。お地蔵さんの土台をつくるひと、料理をつくるひと、交通整備するひと、子どもの相手をするひと、などなど。

ご詠歌もたっぷり1時間もしていただき、日頃のつかれが残っていたのもあり、ごめんなさい、気持ちよく居眠りもさせていただきました。笑

率直におもったこととしては、子どもが少ない!ということ。

ちかくの小学校も1学年あたり2クラスしかないようで、これが少子化か…と。

人口減少していてちょうどいい、食料危機がうんたらかんたら…という話もききますが、単純に若いパワーが感じられないのもさみしい気持ちになりますね。

時代と地域によっていい塩梅でまわっていればいいのですが、限界集落だったところが消滅したりするのを目の当たりにすると、淘汰されていく運命にあり簡単にとめることはできないのかな、と思ったりします。

話に具体性がありませんね。これはよくない。だれも傷つかないから誰にも届かない。

これでも地蔵盆担当になって諸々準備をしていました。

その結果、思ったことが2つ。

①あーだこーだ理由をつけて仕事と責任を押し付け合う醜さ、とそれをうまく解決する方法が必要。

すこし乱暴ですが、そんなに不満ならはじめに主張すべき。目の前のちょっとした衝突と妥協に割く面倒をさけたにもかかわらず、後だしジャンケンスタイルで重箱の隅をつつくような言動を繰りかえすのはまったく建設的ではないことをあらためて認識するよいきっかけになりました。


②回覧板とかいうSNSが一周まわって興味深い。回覧板×VR&ARとか、冗談半分でやってみたいな。



「回覧板2.0」ですよ。回覧板の拡張。かっこいい。


③「まえがそうだったから」やっていることでも、現代において機能してないことは思い切ってやめることも必要。いちどやめてみて、必要だと思ったら再開したらいいだけの話。批難されるのがこわくて前年のリピートしかしないこともは自治会が魅力的でなくなり、衰退する原因のひとつであるように思いました。

総合して思ったこととして、これは亡くなった祖父の遺言でもあるのですが、

「みんな、仲良くやれよっ」ってこと。

単純なようで難しいので、哲学的命題だと認識しております。

かかわるすべてのひとから好かれることは困難を極めるので、じぶんが好きだな、もっといろいろしゃべりたいな、というひとを大事にすることからはじめていくのがよいでしょうね。

ただ、牧歌的に「みんなともだち!」という主張はしません。

幻想にしがみついて消耗するのは時間と体力の無駄です。

①のコメントと矛盾するようですが、要するに「じぶんがそのひとを好きになれそうかどうか」を見極めるスキルを身につける必要があるのでは、ということです。

ぼくの場合は、そのひとのみため、しゃべりかた、立ち居振る舞い、発言内容、視線、においなどが判断材料になります。

元来、波風たてずナアナアでやっていこうよ、という性格ですが、ブログをはじめて考えが少しかわりました。

それ、オモシロくない。

少なくとも発信するからには好き嫌いを大なり小なりハッキリさせておかないと、その発言に意味はない。

誰も傷つけず、誰にも届かない。かといって傷つけたいがために発言するわけではないのです。中二病みたいですね。笑

反応を得られない作品がいちばんクソだ!と美術学生時代の思考を取り戻しつつあります。

「率直に思ったこといっていっていけばいいんだよ」ってTHA BLUE HERBのBOSSもいっています。

以上、地蔵盆から考えた、時代は変わる、時代は変えられるという記事でした。

では。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です