どうも!
当ブログを訪問いただきありがとうございます。
自伐山のスズキ。の運営をしている鈴木孝平です。
はじめての方向けにカンタンに自己紹介をしておきたいと思いますので、少しだけお付き合いいただけたらうれしいです!
ではいってみましょう〜
自伐山のスズキ。の運営者=鈴木孝平ってだれ?
1989年、神奈川県生まれの28歳です。
もうすぐ終わりそう…な、平成が始まった年に生まれています。
高校を卒業して京都の大学に進学して約9年間のあいだ京都で暮らしていました。
早稲田大学の文学部と文化構想学部に合格していたのですが、何となく映画監督になりたかったのと一人暮らしをしてみたかったので京都の大学(立命館大学・映像学部)に進学を決めました。
詳しいエピソードは追って記事で紹介していきますね。
▼9年間をざっと振り返るとこんな感じです。
2008年〜2009年(大学1〜2回生=18〜19歳)
京都での一人暮らしスタート。漠然とした不安から業務用スーパーのあんこ1kgやアイスクリームを一夜にして消費したり、刺激を求めて自転車で京都〜実家(神奈川)まで野宿しながら3日で帰省したり、琵琶湖を1日で一周して帰りに琵琶湖の花火大会に巻き込まれたり、日本縦走を目論んで舞鶴からフェリーで北海道に渡って南下したのち青森の恐山で膝をクラッシュして新幹線で京都に帰ったり、奈良の東大寺の大仏を見るためだけにチャリで日帰り旅行したり。有り余る時間の使い方を模索していました。
2010年(大学3回生=20歳)
12歳年上(=同じ干支)の学部事務室で働いていた女性(現在の妻)とお付き合いを始める。
単なる学生をしていただけでは到底交流できていなかったであろうアーティストや研究者の方とも関わりを持つことができました。
大学生にありがち?な難解な哲学書を読み漁ったり、商業映画はクソだ!ポストモダン時代における構造主義的人間存在がうんたらかんたら・・・みたいな事ばかり考えており第一次頭でっかち時代を迎えてもいました。
当時、一番影響を受けていたのは寺山修司でした。
寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年(昭和10年)12月10日 – 1983年(昭和58年)5月4日)は日本の歌人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名[1][2]をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
Wikipediaより引用
青森の三沢というところに寺山修司記念館があるので2009年の日本列島縦走計画の際に立ち寄ったのですが、あいにく休館日だったのです。無念!
ラッキーなことにぼくの父の実家は岩手県の九戸村。三沢は近い…。
ということで翌年に父と寺山修司記念館デート。非常にシュールで記憶がありません。
2011年(大学4年生=21歳)
寺山修司が好きすぎて、初の中編自主制作映画を制作。
静岡の砂丘までロケに行い、10人以上のスタッフに支えられて気がついたらオマージュ?映画が完成していました。
幸運なことに寺山映画のプロデューサーをされていた方が大学の客員教授でもあったので完成した作品を見せると「5分でいいね!」(完成作品の尺は40分越え!笑)とバッサリ。。。
当時の自分としては、人・モノ・カネを総動員したつもりが、映画コンペにも引っかからず、周囲の反応や評価もいまいちでした。これは向いてないかも・・・という思いが次第に強くなり、徐々に個人制作の映像作品に乗り出しました。
2012年(大学4回生=22歳)
国内外の実験映画を手当たり次第に見まくるように。
世界中のアヴァンギャルドな映像が無料で視聴できるサイト「Ubuweb」は重宝していました。
幸か不幸か、京都にはアンダーグラウンドな音楽や映像に触れるには困らない環境が整っていたので、夜な夜な小規模な上映会やノイズミュージックなどの演奏会に出かけては先鋭的なフィールドに身をおく自分によっていました。目を覚ませ!
就職活動はせず、大学院進学を決めたのが1月くらい。
京都市立芸術大学の大学院の彫刻専攻を受験して無事、合格。
現代アートのフィールドでの映像表現に軸をおいて、ぼくはアーティストになろうと思っていました。
2013年
大学院に進学したのはいいものの、なんで彫刻?と思う方も多いかと思いますのでさらっと、何をしていたかを説明しておきます。
現代アートでは彫刻の捉え方がかなり広いです。
物理的な素材を扱うだけではなく、非物質的な映像や時間などの概念も素材として彫刻することが可能なのではないか?という問題提起なわけです。
現代アートって、とにかく芸術の歴史の中で誰もやってないことをやったら勝ち=成功=歴史に残る!みたいな部分があるんです。
で、21世紀に現代アートをやるっていうことは、結構しんどいことだと思いました。
誰もやってないこと、新しいことって、なかなかないんですよね。
いわばレッド・オーシャンです。。。
しかしながら当時はがむしゃらに作品の数を作る感じでした。消耗してましたね・・・
2014年
ひきつづき消耗していました!
アーティストがどこか違う場所に滞在して作品をつくることを「アーティストインレジデンス」といいますが、当時のぼくはそれをすることがなんとなく作家としてのステップアップだと信じていました。
なので韓国のスタジオに2ヶ月滞在するプログラムに参加しました。
結論からいえばとても楽しい時間でした。
しかしながらアーティストとしてステップアップしたか?と言われたら答えはNOでした。
なぜなら作品が評価されるわけでもなく、売れたりもしませんでした。
ロンドンの名門アートスクール=Royal College of Art にも短期留学しました。
その時に作った作品を抜粋した動画がyoutubeにあったのでアップしておきますね。
2015年
大学院も無事?修了しました。
無事?アーティスト予備軍としてフリーターになりましたが、この時すでに妻は第一子をお腹に宿していました。
これでは流石にまずいなー、ということで就職活動をスタート!
大阪あたりの広告代理店や映像制作会社を数社受けて全落ちしました。笑
理由として思い当たるのは条件面で
- 定時で終わりたいし残業したくない
- 家族との時間が大切
- 京都から通いたい
みたいなことを面接で言っていたからかなのかな、と思います。
まあ、いま考えると落ちて正解だったなと心からいえますが・・・
最終的には京都の家から自転車通勤できる某老舗企業に内定をいただくことができ、2年間のあいだサラリーマン生活を満喫しました。
2016年
数回の海外出張(現代写真のフェア)も経験させていただいたり、個人では到底出会うことがなかった世界的な著名人にもお会いすることができたりと、企業という集団がなせること、なせないことの片鱗を垣間見ることができました。
結果的には、この領域で自分の成長速度が著しくダウンしたことを実感したり、求められることを実現できず精神的なストレスで体調不良(睡眠時の慢性的な中途覚醒、味覚障害など)が発生して退職願を提出するに至りました。
妻や家族には心配や迷惑をかけましたが、うつ病になったりする前の自己防衛本能が働いたのだと自分では思っています。
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いまはどんな仕事をしているの?
紆余曲折あり、2017年に大幅なキャリアチェンジを決心しました。
というか2017年は環境を超!変えました。
詳しくは移住カテゴリの記事を読んでいただければ!
▼米原・東草野に移住します!引っ越し先の候補を見学してきました。
2018年4月6日現在、地域おこし協力隊として滋賀県米原市から委託された仕事をしています!
自伐型林業、という数名でチームを組んで山の手入れをする(超ざっくりな説明)仕事と並行して小商いの組み合わせ=複業ライフの実現を目指して山奥で暮らしています。
その複業山奥ライフの実践をこのブログ”自伐山のスズキ。”では発信しているというわけです。
これからはどうするの?
家族3人を満足に養うため、起業をします。
そして、超真面目に起業の勉強をします。
何で起業すんねん!という話は次の記事で紹介しますので、ひきつづきよろしくどうぞ!
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▼三沢市寺山修司記念館 はこちらからどうぞ。笑
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